下駄箱にラブレターが突っ込まれていた。 「……困った」  困惑というよりは不機嫌そうに顔をしかめているように見える弟は、声色も固くそう呟いた。その理由は、彼が持つ薄桃色の可愛らしい封筒にある。 「今どき珍しいよね、手紙とか」 「名前ねーし……」 「中にあるんじゃない? 開けてみれば」  えー、まあ、言ってしまうと、文武両道で不器用ながらもそこそこ優しい、口と目付きの悪さが玉に瑕な僕の双子の弟は、そこそこモテる。一度僕が間違われて告白されたこともあるし(眼帯で解るだろ)悦志くん好きな子いるのとか相談持ちかけられたり(自分で訊け)これ渡してほしいのとか調理実習か何かで焼いたと思しきクッキー渡されたり(自分で渡せっていうか焦げてんじゃん)とか、近しいがゆえに僕は大変な被害を被っていた。リア充爆発しろ。  悦志がこれまた古典的にハートのシールで封をされた封筒を、まるで腫れ物にでも触るような手つきで開けた。中に入っているのも、白地に花柄をあしらった清楚で可愛らしい便箋だ。 「……なあ、これ入れ間違いとかじゃねーの?」 「ないと思うよ。お前、清楚系にモテるから」 「俺より三波のがモテんだろ……」 「八雲は例外」  三波八雲というのは僕らの友人で、眉目秀麗成績優秀スポーツ万能な学年一のモテ男のことだ。彼は今まで女子からの告白を全て断っているのだけど、その理由が心に決めた人がいるとかで、そこがまた女子の人気を呼んでいるらしい。くそ、リア充爆発すればいいのに。  僕が思わず歯噛みしている間に悦志は腹を括ったようで、綺麗に折り畳まれていた便箋を開いていた。  それを覗き込むと、薄い灰色の丸っこい小さな字がころころと踊っていた。 「筆圧うっすいねえ。丸字だし、すごい女の子ーって感じ」  文章を読まずに字の感想だけ言うと、悦志は僕から便箋を隠してしまった。 「こら、見んな」 「なんで」 「プライバシーだろ、こういうの」 「双子なのに?」 「双子だからだよ、バカ」  別に気にすることないだろうに。僕からしっかり文面を隠してしまった悦志は読み進めていくごとに表情を険しくしていった。  やがて読み終えたのか、便箋を元通り丁寧に畳んで封筒に戻すと悦志は深々と溜息を吐いた。 「……勅使河原だ」 「え?」 「勅使河原あずさだった、送り主」  勅使河原あずさ。長ったらしくて何となくゴージャスな感じのする名字を持つ彼女は名前に違わずゴージャス系の美少女(推定)だ。推定っていうのは僕の好みじゃないからなんだけど。僕の好みはどっちかって言うと清楚系だ。なんでみんな悦志の方に流れるのか理解出来ない。世の中は理不尽だ。  ――まあそれはさておき、勅使河原あずさって言ったら男子で言うところの八雲並のアイドルだ。確かに勅使河原あずさと悦志は出席番号が前後だけど、彼女が悦志に惚れるような要因が見当たらない。 「……なんでまた、勅使河原さんが」 「俺が聞きたい」  勅使河原あずさのゴージャスな雰囲気とは似ても似つかない清楚で可愛らしいラブレターを鞄にしまった悦志は、もう一度深い溜息を吐いてようやく教室に向かった。  僕らのむちゃくちゃ早い登校時間にあれがあったということは、彼女は昨日の放課後にあれを置いていったのだろうか。 「(……悦志は断るんだろうな)」  僕の弟が今のところ誰とも付き合う気がないのは、多分僕が一番よく知っている。かわいそうになあ。僕は悦志の背中に届かないように呟いた。

「えっちゃぁーん、聞いたよぉー!?」  大分賑やかになってきた教室で、鞄を下ろすのもそこそこに愛里ちゃんが悦志に絡んできた。流石女子は情報が早い。 「あずさから告白されたんだってえ?」 「一体そういう情報はどっから流れてくるわけ?」  答えるのも億劫そうに顔を逸らした悦志に代わって僕が口を開く。 「あ、優志おはよー」 「僕はついでか」  にやにや笑いのまま悦志の背中に凭れる愛里は鞄を床に落として身を乗り出してきた。 「あんたはついでだし、情報の出所も秘密ー」 「……仲山、重い」  愛里ちゃんが身を乗り出したせいで押しつぶされるかたちになった悦志が低く呻く。しょっちゅう押し当てられているからか、背中にがっつり当たっている彼女の乳にも無反応な辺り僕は少し弟の未来が心配だったりする。男としてそこは慣れちゃいけなかったと思う。 「耐えなさい、男でしょ」 「性差別すんな。大体お前ちょっと太ったんじゃねえか、重……」 「増えたのはバストですぅー!!」  リア充滅べ。 「勅使河原さんの話じゃなかったっけ?」 「なーに優ちゃん妬いた? 妬いた?」 「妬いてない」 「勅使河原がどうかしたのか?」  不意に後ろからきりっとした爽やかな声がかかった。 「ああ、おはよう八雲……」 「おはよーやっちゃん!」 「おはよう。……おい悦志、大丈夫か?」 「聞、くより先に、やることがあんだろーが……」  頭を下げているような恰好で呻く悦志を見て、愛里ちゃんの足下に視線をやると、彼女の爪先が床から浮いていた。いくら剣道で鍛えていると言っても、まだまだ発育途中の身体で背丈のそう変わらない女子の全体重を支えるのは辛いらしい。未だに僕らを両脇に抱えて走れる兄はどれだけすごいんだろう。 「愛里、そういうことだからそろそろ降りてやれ」 「えー?」 「えーじゃない」  愛里ちゃんは渋々降りたけど、結局げんなりした顔で起き上がった悦志の背中に抱きついた。 「愛里ちゃんもスキモノだねえ。僕とかダメ? お買い得だけど」 「えっちゃんは可愛いけどあんたは可愛くないからやーよ」  可愛い扱い、本人は不満そうだけど。 「も、って?」 「話題の勅使河原さんが悦志にラブレター渡したんだよ」 「へえ、あの勅使河原が」  感心したように呟く八雲は確か勅使河原あずさと同じ委員会の所属だから、僕らより交流があるはずだし、何か思うところでもあるのかもしれない。 「そんな様子あった?」 「好きな人がいるって相談されたことがある」 「……わお」  一体いつから好きだったんだろう。悦志と勅使河原あずさが接触する機会なんてそれこそ名前の順で並べられたときだけなのに。  悦志はラブレターを読んでからずっと彼女に関することは話さないし、勅使河原あずさはまだ教室に来ない。  本人たちは黙りこくったまま、周囲だけが浮ついている。奇妙な状況だった。

結局勅使河原あずさがやってきたのは朝のHR直前だった。勅使河原あずさも悦志も僕も、朝掃除の班が違うから朝彼らが接触したのかは解らない。ただ、どちらも目線を向けることすらしなかった。 「……好きな人に告白した女の子の態度とは思えないなあ」 「ゆーし、なんか言った?」 「充拓にわかんないような難しいこと」 「じゃーいいや」  相変わらず首に引っ掛けてるだけのネクタイと中途半端に襟足だけ伸ばした髪を翻して充拓がモップをかけながら走る。葛西充拓のこういう単純なところを、僕は案外好ましく思っている。  世界中の人間が充拓ぐらい単純だったら、世界の仕組みはもっと簡単だったに違いないのに。

「十海寺くん?」  部活のあと、人のいない放課後の教室で帰り支度をしていると、華やかな声に呼び掛けられた。振り向くと、勅使河原あずさがいた。 「……僕は優志の方だけど」 「解ってる」  彼女が動くたび綺麗に巻かれた巻き髪が揺れて、なんだかいい匂いがする。女の子って不思議な生き物だと思う。 「私、悦志くんにフラれたの」 「……へえ、そう」  まあ予想通りの結末だ。きっとあの優しい弟は、口下手なりに必死で言葉を尽くして彼女を傷つけないよう慎重に断ったことだろう。僕の弟は本当に優しいから。 「だから優志くん、私と付き合わない?」 「は」  何を言っているんだ、この女は。  悦志が駄目だったから僕と、だって? 「……冗談でも言うもんじゃないよ」  憤りを通り越して呆れすら覚えて、溜息を吐くと勅使河原あずさは目を丸くした。 「あれ、解った?」 「本気だったらぶん殴ってた」 「結構怖いところあるんだ、優志くん」 「僕を優しいと思ってたんなら、とんだ思い違いだよ」  僕は優しいんじゃなくて家族以外に興味がないだけだ。  いつかは出なくちゃいけない狭い世界に、僕はいつまでも浸かっていたい。そう思ってる。それだけの話。それをみんなが都合よく解釈してくれているお陰で、幾分過ごしやすくもあるけど。 「――悦志くんにね」  不意に話し始めた勅使河原あずさは、夢を語る愛里ちゃんと同じ顔をしていた。 「『お前、本当は俺のこと好きじゃないだろ』って言われたんだぁ」  何とも悦志らしいストレートさだった。  あいつがラブレターを読んでいた時、苦虫を噛み潰したような顔をしていたのはそれが解ったからか、とようやく合点がいった。 「なんでバレたんだろ。私八雲くんにも相談したのに」  当たり前だ。あいつはあれで案外人の感情の機微に聡い。八雲の情報程度の付け焼き刃で騙せるわけがない。全く、僕の弟を見くびるのも大概にしてほしい。 「どうして嘘なんか吐いたの」 「みんな悦志くんかっこいいよねって言うから。私と悦志くんが付き合ったらみんな羨ましがるでしょ?」 「……君は最低って言われるタイプだね」 「知ってる。私わがままなの。みんながすごいって言って、お姫様みたいに扱ってくれないと嫌なの」 「ガキだね」  吐き捨てるように言うと、勅使河原あずさはきょとんとした顔で僕を見た。 「だってガキだもん。私たち、まだ中学生になったばっかりなんだよ?」  ――多分、勅使河原あずさはそれはそれは恵まれた環境で育ったんだろう。  優しくってわがままを何でも聞いてくれる人に育てられたに違いない。それを羨ましく思わないと言ったら、多分嘘になる。  僕は家族が好きだし、誇りにすら思うけど、それでも内情が決して一般的な幸せとは言えないことも了解している。それでも、だからこそ、僕は彼らを誇りに思うのだけど。 「……僕らにとっては、もう中学生なんだよ」  きっと君には解らないだろうね、勅使河原あずさ。  哀れむような、羨ましいような複雑な気持ちでそう言い捨てて席を立つ。 「待って」 「……なに」  これ以上何を言うことがあるんだろう。多分とても冷めた目をしている僕を怯みもせず真っ直ぐ見つめて、勅使河原あずさは口を開いた。 「私、今は本気で悦志くんが好きなの。『そんなことばっかしてると、いつか誰かの恨み買うからやめとけ』って、初めて他人に心配された。そんなこと言ってくれたの、悦志くんが初めてだった」 「……何でそれを僕に言うの」 「悦志くんは優志くんだけのものじゃないってことを覚えておいてほしくて」  ――思わず笑い出しそうになった。  笑いを押し殺して、ゆっくり人の良さそうな笑顔を作る。 「君のその熱病が、冷めないことを祈ってるよ」  勅使河原あずさの視線を背中に受けながら、今度こそ席を立った。 「それじゃあ、また明日」  多分僕は、今ものすごく嫌な奴だ。

「ただいまあー」  何だかとても疲れたような気分で玄関のドアを開ける。すると僕の声を聞き付けて体重の軽い足音がこちらに駆けてきた。 「おかえりなさい、お兄さま」 「ただいまー亜梨子ちゃん、お出迎えありがとー」  末妹の亜梨子ちゃんだけが僕の癒しだ。うん、女の子はやっぱりこうあるべきだと思う。  並んでリビングまで行くと、ソファで小学校の算数ドリルをぺらぺら捲っている悦志がいた。ああ、亜梨子ちゃんの宿題見てあげてたのね。 「おかえり」 「……ただいま」  思わず開いた少しの間に何か思ったのか、悦志はちらりと僕の方を見ると、亜梨子ちゃんに声を掛けた。 「亜梨子、洗濯物取り込んでくれるか」 「はい」  空気を読んだのか、利口に頷いた小学一年生の妹はリビングのドアをくぐり抜けてベランダへ向かった。そのドアがぱたんと閉まるのを見計らって、悦志が顔を上げた。 「どっから話せばいい?」 「プライバシーじゃなかったの?」 「うるせえな。それはそれだろ」 「大体は勅使河原さんから聞いたよ」 「じゃあ問題ねーな」  こちらも疲れたように溜息を吐いて、意外と長い睫毛を伏せた。 「勅使河原さんがさあ、お前は僕だけのものじゃないなんて言うんだよ」  上げられた瞳はそれがどうしたとでも言いたげだった。 「お前はもうとっくに僕のなんかじゃないのにねえ」 「生まれてこの方お前のだった覚えなんてねえけど」 「悦志のいけずー」 「殴るぞ。……教えてやらなかったのか」  なんてどうでもよさそうな聞き方をするんだろう。本当にどうでもよかったなら聞かなきゃいいのに。 「僕が教えたって、お前はここから離れる気なんかないだろ」  悦志は笑って、何も答えなかった。